(Vol.2) 「鉾をおさめて」について
By M.Wada
1、 時代
本歌は、昭和3年7月に時雨音羽作詞、中山晋平作曲で、テノール歌手藤原義江が歌って世に出た。〈因みに、同年2月に、このトリオで「出船の港」が出されている〉
(注:「出船」は「今宵出船かお名残お惜しや・・・」で始まる歌。大正7年に小雪が舞う秋田県の能代港に郷愁を覚えて、勝田香月が作詞した。 「出船の港」は「ドンとドンとドンと波乗り超えて・・・」で始まる歌。時雨の故郷である利尻島に歌碑がある。1番の歌詞に鯨も登場)
2、 我が国の捕鯨の歴史
- 我が国の捕鯨の歴史は縄文時代までさかのぼる。
- 鯨の骨を用いた矢尻が出土されたり、ホコを撃ち込まれた鯨が描かれた壺なども出土
- 万葉集に鯨は「いなさ」、または「いさ」と称され、「いなさとり」は海にかから枕詞となっている。
- 当時は、「突き取り式」と称し、ホコ、ヤス、ヤリなどを使用して、鯨を突いていた。
- 17Cになり、「網取り式」と称する鯨用の網が考案され、ホコと網を併用する「網掛け突き取り捕鯨が一般的となる。
- 明治になりアメリカで開発された捕鯨銃(ボウラム銃)が使用されるが、ホコに爆薬が仕込まれているのが一般的であったようだ。
- 時雨は大正末期に同詞を作ったが、その時代は既に捕鯨銃が使用されていたものの、銃は「ホコ」と呼ばれていたので、彼は心象風景、すなわち想像でホコの詞を作ったのではないと思われる。
3、「ホコ」とは
ほこは
a「鉾」、
b「矛」、
の2種の漢字がある。
同歌は「鉾をおさめて」と、aが使用されているが、捕鯨に使用される場合はbが用いられる場合が多い。また、良く知られているように「韓非子」が出典の「矛盾」のほこはbである。
この2つに差異はあるのか?
また、やり(槍)との違いは?
調べた範囲では正確な差異は判らなかったが、一般的な「ほこ」の表現は「矛」であり、「槍」とは機能的に殆ど差がない(解説によっては、機能的な差が若干ある?)
また「鉾」は矛を祭祀用として使用する場合に使われる?
4、「鉾をおさめて」
(タイトルでは無く、歌詞の冒頭)
2通りの解釈ができるのでは?
A 捕鯨銃で鯨を仕留めて凱旋するので、捕鯨銃の「ほこ」をおさめる、すなわち、片づける。
この場合は「おさめる」は「納める」?
B 「ほこをおさめる」(この慣用句は「矛」が用いられる)と言われるように、鯨と死闘の末に仕留めたので、戦いをやめる、すなわち終結する。
この場合の「おさめる」は「収める」?
時雨の詞は「おさめる」と漢字でないので、ABどちらの解釈が相応しいだろうか?
5、「日の丸上げて」
大正時代の捕鯨船が日の丸、すなわ日章旗を掲げていたであろうか?
周知のように、日の丸が正式に国旗として認定されたのは、「国旗国歌法」が公布された平成11年である。
明治3年、太政官布告により、陸軍御国旗として旭日旗が定められたが、所謂日章旗の扱いは、政治的背景も絡み諸説あるようだ。
船舶に掲げられたものとしては、
寛永期の幕府船団に日の丸の幟
幕府の年貢米を輸送する御城米廻船に朱の丸の幟
薩摩藩に服属していた琉球王国の中国への進貢船に日章旗
などがあるが、漁船に日章旗を掲げた事例は見つからない。
この詞の「日の丸」とは大漁旗と解したい。
大漁旗は、海上からも目立つように、さらに縁起を担ぐ目的で派手な色彩、大胆な構図で描かれることが多い。
船名、祝大漁などの文字、日の出、魚、恵比寿、宝船などの絵柄が多いとされる。
「日の丸」とは日の出(旭日旗に近いかもしれない)が描かれた大漁旗のことであろう。
6、時間は?
1番に「夜あけの風が」とあり、早朝と思われる。
それを受けて2番で「陽は舞いあがる」とあるので、この陽は朝日と推定される。
「日の丸上げて」の「大漁旗の日の出」と呼応する。
因みに「鉾をおさめて」を当初発表した際のタイトルは「朝日をあびて」であった。
7、場所は(どこの湊か)?
「鉾をおさめて」は比較的有名な歌故、時雨がイメージした湊があると思い、調べたが、特定の湊は見つからなかった(後述で、茨城県の大洗海岸?)。
時雨音羽は、明治42年、北海道利尻島生まれで、新湊小学校、沓形小学校高等科卒業、沓形村役場(いずれも利尻島)に勤務後、上京。
日本大学大法科を卒業して、大蔵省主税局織物課に勤務後、作詞、映画や歌舞伎の脚本などを手掛けたようだが、捕鯨との接点は判らない。
3番に「縄のたすきで故郷のおどり」とある。
縄で作られた「たすき」は、必ずしも多くないと思われ、これがヒントになるかもと調べたが、特定できなかった。
現在、捕鯨基地として農水大臣より許可された鯨の解体処理場は、北海道の網走、函館、宮城県の石巻鮎川、千葉県南房総市和田、和歌山県大地町の5か所であるが、時雨が作った大正時代は、日本各地で水揚げされていたものと考えられる。
時雨の著書「出船の港と利尻島」の中で、「鉾をおさめて」について「この歌は鯨とりの歌だが、人々の青春から故郷の母に捧げる歌でもある。私はこの世で一番美しいものは母の愛だと思っている。どんなに世の中が変わっても、母の愛の美しさは変わらない」と記している。
4番の最終フレーズに「母へ 港へ みやげの鯨」とあり、この母がやや異質な感があったが、上記の説明で納得した。
信長貴富編曲「無伴奏男声合唱による日本名歌集ノスタルジア」解説に、「鉾をおさめて」に関し、大蔵省勤務時にキング誌から「元気のいい作品」を依頼され、茨城県大洗海岸へ出かけてイメージをふくらませたと記されている。
また故郷の利尻島で大きな鯨を見た思い出が生かされているとも記述されている。
利尻町のHPを検索すると、故郷の偉人として時雨を取り上げているが、「鯨が開いた鎖国の扉」として嘉永元年にアメリカ人のラナルド・マクドナルドが捕鯨船に乗り込み、鎖国下の利尻島に上陸したことが記されている。
時雨は鯨とは縁があったことが伺える。
さらに同町のHPの観光案内に「神磯の鳥居」は「朝日が美しい」と記されている。